山根塾奮闘記
小学生から社会人までを相手に日々奮闘する山根塾鬼塾長の苦悩。

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素読のすすめ

 「素読のすすめ」・・・お気に入りの本のタイトル。


 なぜお気に入りか?・・・それはワタクシの言いたいことがほとんどこの本に書かれてあるから。こうまでワタクシ個人の意見と一致した書物に出会うことはまずない。素読とは、「意味がわからないまま、リズムに乗って読みつづけること、しかも声を出して」。この考え方は何も読書だけに言えることではない。すべての事柄は、初めて個人の目に触れた時点では曖昧としているものだ。回を重ねるごとにぼんやり見えてくる、が、それでも釈然としない「部分」が残ったりするのが普通だ。最初からすべてが見通せる事柄なんてありえないし、たとえ在ったとしたところで、それは何の魅力も内在していない。つまり、物事は「わからないからこそオモシロイ」のであって、最初からすべての結果を求めようとすると、自分で物事を考え・解決し・喜びを得るという一連の過程が著しくスポイルされ、最後には「喜び」という感情さえ感じなくなる危険性が大きい。


 若い世代と毎日接する職業柄、「こんなことして何になるの?」というセリフを耳にするのは日常茶飯事となってしまった。つまり、彼らが求めているのは単なる「結果」。その「過程」をエンジョイしようとする姿勢に著しく欠けているのだ。しかも、少々語弊があるかもしれないが、勉強しようという意欲のない、いわゆる出来ない生徒に限ってこの傾向が強い。先生方の間で「学力と精神は比例する」という法則が流行っている(笑)。現場に居ない方々からすれば「差別発言!!」と言われかねない「法則」ではあるが、そういうお方!現場に来てごらんなさい。きっと一年も経たないうちにこの法則を口にしたくてたまらなくなりますから(笑)。


 若者に限らず人間がこのような状況になってしまうには、当然様々な要因が絡んでいて、一概に「コレ!」と原因を特定するのは難しいのだが、ワタクシはその原因の一端を「小学校の音読課題」あたりに見出している。小学生の頃誰もがやらされた国語の教科書の音読の宿題。我が塾に通ってきている小学生を見るとき、この音読がきちんと習慣化されている子とそうでない子の間には、とてつもなく大きな溝がある。落ち着いて人の話を聞ける力、集中力、記憶力、その他諸々の能力においてその差は歴然としている。小学生のうちは比較的この音読をいやがらないのがまだ救いであろう。その習慣が出来てない子に対してはまずこの習慣付けから始める。よく読める子がたいていは一人か二人混じっているのでやりやすい。励みになるのである。音読は目に見えない宿題であるが、やってるかどうかはすぐにわかる。やってなければワタクシ、かなり厳しい(笑)。家庭との連携も大切。幸いにして理解のある親ばかりなので、ことは上手く運ぶ。効果が目に見えてくるのは意外と早い。2〜3ヶ月もすればまず、「落ち着き」が芽生える。記憶力も少しずつ良くなってくる。本人の努力に対して心から賞賛の言葉が出てくる。多方面で得られる効果は大きい。これが出来るのは小学生であるからこそだ。中学生・高校生の場合、「一度習って内容も理解していることを声に出して何度も読むことに何の意味があるの?」とくるのである。もはや強制的に宿題にしてもその効果は期待できまい。損得勘定に著しく敏感な環境で育った現代人ならなおさらである。かなり出来る子供でも、そんなことより単語の一つを覚えた方が・・・となるのはいたしかたないかな〜。よって、小学校のころに音読の習慣が出来ている子は自然と家庭内で自主的に英語にしろ国語にしろ、密かに音読の習慣を継続することになる。そうでない子供との差はますます開き、その溝を埋めることはもはや不可能となってしまうのだ。特に語学の世界では、音読の習慣が出来てないのは致命傷。そんな輩が「英文科に行きたい」などと言い出した日には、も〜・・・・。でもねっ。ここだけの話だけど、意外と多いのですよ。言葉に対するセンスも知識もまるでない、ただの理詰めで語学というものをとらえている英語教師って。語学って、こうだからああなるとか、そういう世界ではあるまい。直感的といいましょうか、瞬時に頭でなく体、特に口が動くものでないと意味がない。そういう直感が働くかどうかは、やはり素読だよな〜。ワタクシののめり込んでいる趣味・釣り・・・・これだってやはり素読みたいなもの。何度も何度も同じ魚を追いつづけ同じ場所に通う。なぜ釣れなかったか?を理詰めで解き明かそうとすることもあるのだが、それもやはり回数をこなし、感性が磨かれていないとそこまで辿り着けまい。つまり、意味がわからず・結果を即求めず同じことを繰り返している時期は必要なのである。だから、ワタクシは釣りの世界にしても学問の世界にしても、人にはめったに聞かない。人の意見を参考にすることはあるが、それでも自分のやりかたで一通りはやってみる。それでも解決できない「部分」はそのまま温存だ。いずれは氷解することを経験として知っているから。自分が死ぬまでには解決できるだろう、くらいのスタンスでいられるのも、やはり「素読」・・・釣りなら釣りの「素読」が、数学なら数学の「素読」が、語学なら語学の「素読」ができているからに他ならない。単純なことだが難しい。


 「結果」って、即得られたらオモシロクないだろう。そう思ってるのはワタクシだけ?いやそんなはずはない。「結果」は「過程」を経て得られるもの・・・、あまりに当たり前。その過程をエンジョイするための人生の「素読」、やってみませんか?誰に語りかけているということはないのだが、そう語りかけたくなる人が結構多いかな〜。長い道のりを経て得られる「結果」には必ずや、満足できるはずですよ。


 



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【2007/06/19 14:44】 | #[ 編集]

「門前の小僧習わぬ経を読む」っていいますからね。最近は小さい頃からの読み聞かせが少なくなり、全て保育園まかせ。やはり、母親や父親からの読み聞かせが一番です。やがて「自分が読む〜〜〜」って言い出します。訳も分からず読む内に内容が見えて来て、あれも買って〜となり、そこから読解力や判断力が付き始めるものです。その原点がずれつつある今日、小学校に上がる頃には読めない、読もうとしないこどもたちが増え、中学校に入る頃には拒絶現象が洗われる。やがて漫画や劇画やPCに毒されたお宅に変わってしまう。なんでもそうでしょうが、教育は原点が問われているようです。
【2007/06/19 17:42】 URL | 釣りじいさん #-[ 編集]

RE釣りじいさん

高校生の書く作文を先日拝見する機会がありまして、その文章に愕然といたしました。まるで友達に話しかけているかのごとく漫然と「よかった」とか「わるかった」など、なんとも幼稚な感想しかかかれていない文章??に接すると、「この子達に英語を教えることの意義は何なのだろうか?」・・・と、まさにため息しか出てきません。すでにことの発端は「小僧」の時代からあるのですね。ほんとうに恐ろしいことです。こういうショックを経験すると、「我が塾に通ってきてくれる生徒だけは、きちんと日本語が使える人間に育成しなければ」という使命感に燃えますので、結構刺激にはなっているのですが、それにしてもね〜、あ〜あ(笑)。
【2007/06/22 02:04】 URL | 釣りキチsankon #XlKecMs2[ 編集]


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