山根塾奮闘記
小学生から社会人までを相手に日々奮闘する山根塾鬼塾長の苦悩。

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勉強って・・・

いや~、ホント、今年度もよく働いた~。


なんだか不思議だけど、入試って、結局のところ、「受験生本人がやる気で勉強しなければ・・・」ということは正論なのだが、これに「指導者」と名のつく「人」がついた時、それは一種の「運命共同体」となる。


つまり、「指導者」であるところの「私」が「受験勉強」すれば、それが正直に結果に反映される・・・みたいなところがある。すでに高校受験・大学受験のポイントは知り尽くし、たぶん・・・だけど、県内どこの高校を受けたって、あるいは、大学なら・・・そ~だな~・・・東大や京大は、ちょっと本腰入れて勉強に集中する必要ありそうだけど、広大の医学部くらいなら・・・受かるだろう~!?と思えるくらいの位置にはいるだろうから、こと「受験勉強」に関しては「余裕」で構えていてなんら問題ないはずの自分が、たかが広島県公立高校の入試問題を必死になって「予習」し、それをまた必死になって生徒に説く。


「すでに自分は受験のベテランだ!」と思った瞬間に、その受験指導は失敗する。つねに神聖な気持ちで真摯に受験というイベントを受け止め、毎年一からやり直す・・・言ってみれば「毎年が受験生だ!」みたいなところがないと、たとえいい実績が出ても、それはたまたま生徒が勝手にがんばっただけ、そこには指導者は不在だ。


去年・今年と、私は必死になって「受験」したつもりである。それが「きわどい生徒」を救ったという実感もある。指導する側が、すでにあたりまえになっている事柄を必死になって解き、それを必死になって出来ない生徒に教える・・・このプロセスがたぶんだけど、わからないなりにわかろうとしている受験生の波長と同調するのかもしれない。とにかく、そうやって自分が受験勉強しているときは、生徒の間違う箇所が手にとるようにわかるし、よって、「間違いを犯させない」指導ができる。


 追い込みの時期、通常授業外に補習を繰り返す。できない生徒は強制的に塾の小さな教室に入り浸らせる。実はここが一番燃える時間だ。生徒の答案を何度もつき返す。どこが「悪いのか」をじっくり説く。次第に答案が「それらしく」なってくる。この過程で生徒も私も成長する。理解しようとしている生徒の目線まで素直におりて行ける瞬間でもある。この辺が実にオモシロイし、受験指導の醍醐味といっても過言ではないだろう。つまり、生徒がなぜわからないのか?ということがわかるには、自分も勉強すること・・・それをおいて他には楽な方法はない。上から見下ろしているかぎりにおいては、絶対に見えてこない「部分」・・・それがココ。


よく「熱意」とか人は言うけれど、それはちょっと違う気がする。「熱意」ではなく、私自身がやってて「勉強って・・・やり込めば面白いや~!」と思ってやってるかどうか・・・ということ。結果が生徒のためになれば一番いいのだが、それよりも何よりも、ワタクシは、「自分の探究心」にプライオリティーを置きたい。仕事ではなく趣味として、に近いスタンスで臨んで初めて自分も楽しいし、生徒にも妙な重圧をかけなくていいように思うのだが。


「私の受験」に切れ目はない。今年の受験がすべて終わった今、また動き始める。何の違和感もなく私は再び全国の入試問題を解き始める。人生48年生きてきて、今、勉強がメッチャ面白い。


 



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