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ケ・セラ・セラ
学生相手の国語の問題を解いているとき、「はっ!」と思い当たることがよくある。最近読んだ「問題文」の中に、森毅の『まちがったっていいじゃないか』というのがある。この人、もともと数学者ですから理論的な文章を書くのかな〜と思いきや、結構その文体はユニークでありちょっと読みにくい(笑)。気持ちのおもむくまま書いているところが多々あり、またそれを万人にわかってもらえなくてもぜんぜんいいんじゃない〜♪と思っている節もあってりして、そういうところが個人的にはとてもお気に入りだ。ちょっとその一節を引用してみよう。
『いま苦労しておけば、将来に楽が出来る、といったことを言う人がある。ぼくは、この言葉がきらいだ。ずっと苦労して、その計画が達成できて、満足している人間なんて、ぼくはなりたくない。・・・・・もうすべて、計画を成し遂げて、あとは老いと死を迎えるばかり、なんてのにならぬほうがよい。だから、そうして生きているかぎり、計画が達成されたあとは、楽になる、なんて生き方はつまらない。』
正確に言えば、人間、「自身の綿密な計画の下人生を遂行し、計画の達成を見た後のんびり死を待つ」生き方は、できないようになっているのではなかろうか。
以前職場をともにしたある高校教師は、「何年経っても楽にならない」とボヤイテおられましたが、それは当たり前のこと・・・・なのですね〜。だって、毎年生徒は変わるのですから。おそらく、この先生は、長年単一教科だけを教えるのだから、年数と経験を積みさえすれば、「ベテラン」と呼ばれる年齢になるころにはかなり楽が出来る・・・という「構想」を持っておられたに違いないし、事実それはワタクシ自身にもあった。だから、この先生の言い分はとても共感できるものであったし、また「楽にならない」という実感は、今を一生懸命生きている証拠なのではないだろうか?とも思うのである。
結局、我々人間の向かう先には必ず「死」が待っている。だから、これから何年後にはこうして・・・ああして・・・という生き方に偏りすぎると逆にそれだけのために「今」という瞬間がかなり犠牲になってしまうのではないだろうか?
今日たまたま久しぶりにあるDVDを見た。アリー・マクビールというヒロインは常に理想の「愛」を追い求め、いつも玉砕するキャリアウーマンだ。この女の子の生きかたに釘をさすかのごとく、ラストシーンで名曲「ケ・セラ・セラ」が流れる。「釘をさす」というのはちょっと語弊があるかもしれないけど、「アリー!君はもっと途中経過を大切にしなよ!明日のことは誰にもわかんないんだから・・・」と諭しているようで、とても説得力のある選曲だった。あまりにタイムリーな自分の心情とも重ね合わさって、心にグッとくるものが久々にあった。
When I was just a little girl I asked my mother what will be Will I be pretty, will I be rich here's what she said to me
Que sera, sera Whatever will be, will be The future's not ours to see Que sera, sera What will be, will be
When I grew up and fell in love I asked my sweetheart What lies ahead Will we have rainbows day after day Here's what my sweetheart said
Que sera, sera Whatever will be, will be The future's not ours to see Que sera, sera What will be, will be
Now I have children of my own Htey asked their mother, what will be Will I be handdsome, will I be rich I tell them tenderly
Que sera, sera Whatever will be, will be The future's not ours to see Que sera, sera What will be, will be
Que sera, sera
ケ・セラ・セラ (日本語訳詩)
幼い少女だった頃 私は将来何になるのってママに尋ねた 美しくなる? お金持ちになる? そうしたらママはこう答えたの
ケ・セラ・セラ 何事もなるようになるのよ 未来のことなど予測できないわ 自然の成り行き次第よ
成長して恋に落ちて 恋人に尋ねた 将来は何が待っているの? 日々虹に恵まれた生活を送るの? そうしたら恋人はこう答えたの
ケ・セラ・セラ 何事もなるようになるのよ 未来のことなど予測できないわ 自然の成り行き次第よ
今は子どもに恵まれて 子どもたちは自分は将来何になるのって私に尋ねるの 美男子になるの?お金持ちになるの? だから私は優しく答えるの
ケ・セラ・セラ 何事もなるようになるのよ 未来のことなど予測できないわ 自然の成り行き次第よ
ケ・セラ・セラ
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期待は裏切られる
いい意味でも悪い意味でも、たしかに期待は「裏切られる」ことが多い。
先日高2といっしょにやった英文解釈に次のようなものがあった。
Our expectations are often deceived. Things which we feared might do us harm turn out to be our advantages, and what we thought would save us proves our ruin.
昔いた高校で、自分の好きな生徒ばかりを「意図的に」ひとつのクラスに集めて自分が担当する先生がいた。当時から「えり好みはしない」と心に決めていた私のところには、いわゆる「こぼれた生徒」が集まる。最初のうちはやはり授業に出向くのが「いや」(笑)。ところが人間ある程度の期間付き合ってみなければわからないもので、一年が終わってみて「はずれくじだった」と感じたことは一度もない。とくにワタクシ個人が努力して熱血教師になってたわけでもなく、むしろごく普通の先生でしたけど、なんだか「いい子」ばかり。
これって、いい意味で裏切られた期待。はたして「えり好み先生」にはこの逆の「裏切られた期待」があったのか?それは定かではないし、どうでもいいことだけど、この英文を読んでいてふと思い出した昔のひとコマ。
その点公立高校の場合(昔いた高校は私立)、いい意味でも悪い意味でも「公平」だ。えり好みが入り込む余地がない。たとえば成績で一クラスを2分したとき、上のクラスと下のクラスを担当するコマ数がどの先生にも均等になるように配慮される。つまり、できる生徒だけ教えて自己陶酔に浸っていることができないシステム(笑)。
できない集団を教えるのはメッチャしんどいのだけど、歯車がいったんかみ合い始めるとオモシロくてたまらなくなるのがむしろ「できないやつら」の方であることが多い。できるクラスはそれはそれで一年平和だから、こっちも好きだけどね。
3年前娘の高校卒業式に出た際、各教室で担任の先生と最後のお別れをする場面で、「このクラス、最初はいやでいやで、はやく一年おわんないかしら・・・なんて思っていたけどね〜」と感慨深そうに先生がお話しされてました。本音でしょうね。一年辛抱して付き合ったからこそもてる気持ちってものがありますよね。生徒たちはみな涙ぐんでおりました。とってもいい卒業のひとコマ。
結局、人って、当たり前のことだけど、ちょっとつきあったくらいではよさも悪さも見えてこないもの。教師ならいやでも一年付き合わされるから、しんどいのをなんとか乗り越えた先にあるのははずれくじであろうはずがないではないか。
2年前教室で大暴れしたクラスがある。かれらもいよいよ卒業だ。授業は今年は担当してないけど、廊下ですれ違ったときの彼らの顔の表情が、イイ♪この暴力教師であるワタクシとの立ち話も楽しそう。話をやめるのが名残惜しいくらい。なんでだろうね?お互い自分の心底からのものをぶつけあったからなのだろうか?歯車がかみ合ってなかったようで実はかみ合っていたのかもしれないし、はっきりいってよくはわかりません。ただ、彼らに対するワタクシの気持ち、また彼らのワタクシに向けた気持ち、その双方に心地よいものを感じる今日この頃です。
今日、ある高1の生徒を叱り飛ばした。すると彼は「保健室に行く」(笑)といって教室を出て行った。出際に「お前の行き場は一生保健室なのか?」(彼はいつもココに逃げる子)と言ったが、ロッカーを思いっきり蹴飛ばして出て行った・・・・・はたして彼はワタクシにとって「いい期待はずれ」になってくれるだろうか?楽しみでもある。
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女の子モード
やはり秋はもの書きのシーズン。滅多に更新しない日誌?だけど、自分の中ではちゃんと活きている。
特に何を書くとか、こういうメッセージを発信したいとか、そういうのすべて抜きにして、とにかくものを書いてみたいと思わせる季節が秋。
今日はめずらしく学校で女の子づいていた。意図したわけではないのだが、何度も廊下で女の子に捕まって立ち話を繰り返した一日。
昼休みにたばこ休憩から車で戻ってきたワタクシに、物陰から少女AとBが声をかけてきた。
A&B 「せんせ〜、その車で私たちをどこか遠くへ連れてってェ〜〜〜♪」
《こいつらなに考えとんぢゃ(笑)》
先生 「おっおっおまえらぁ〜、なんちゅうことを言うの!?」
A 「な〜んか、とにかく人ごみがいやになったんよ〜。クラスのみんなとか、一年生の楽しそうな顔とか・・・んも〜、ウザイ!!」
B 「ワタシタチ、なが〜いトンネルの中に入ったみたい。」
《なんぢゃそりゃ〜。おいおい、こりゃちょっと邪険にできそうにもないの〜。なが〜いトンネルね〜・・・なかなか文学的センスのある言い回し。どこでならったの?そんな表現・・・笑》
昼休憩であったことが幸いしてか?あるいは災いしてか?その場に少し居座って彼女たちのお話を聞いてあげることにした。まっ、よくあるパターンで先輩たちはみなそうやって迷路に迷いながら、今では立派に???3年生だ。たぶんほっといても回復はするだろうけど、行きがかり上話だけは・・・ねっ。さんざん話し倒された挙句、当面のカンフル剤として、ワタクシ自身をもう地の底におとしめる話をしてあげて、相対的に彼女たちの気分をいくらかよくしてあげる策をとった。
先生 「ときどき自分で自分が情けないくらい、自分のいい加減さに嫌気がさすな〜。」
「情けないけど、結構顔は生き生きしとるじゃろっ。釣りのことしか考えとらんけ〜。それにくら べたら、悩むだけいいんじゃない、チミタチ♪」
な〜んか、よく覚えてないけど・・・それほど内容のない話だったってことなのだが・・・こんな感じでしこたま自身の地位を格下げして、逃げるようにその場を立ち去りホッとしたのも束の間。こんどはC子とD子だ。こいつらちょっと性質悪いかもと思いながらも、結局捕獲される(笑)。
C子 「せ〜んせっ、ちょちょちょ。逃げたらいけんよ。うち(=私)の悩み聞いてえ〜やっ。あのね、彼氏と英語でメールしてるんだけど〜、わたし英語ぜんぜんダメぢゃけ〜、かわりにこれ打って欲しいんよ・・・・ワタシエイゴゼンゼンダメ。エイゴデメールヤメマショ〜・・・コレ英語で打って欲しいの♪」
先生 「おっと、オマエの彼氏外人か!?どこでゲットしたの?」
C子 「んっ?出会い系〜♪」
先生 「なんぢゃそりゃ!そりゃ付き合い自体止めとけ。わしがその旨メールしちゃろ〜。」
結局、お別れメールの原文を作成させられるハメに。
やっと英語科の部屋へ戻れると思ったそのとき、EFGH・・・・子たち、何人いるんぢゃおそろし〜。それにも〜よそのクラスからXYZまででてきた〜(汗)。
やつら 「せんせ〜。メタボのチェックしてあげよ〜。お腹触らせんさい!ちょっとつまむだけぢゃけ〜。」
先生 「通常1回1000円じゃが、今日は10円」
ちょっと調子に乗りすぎた。も〜、痛いくらいつまみまくられて、やっと研究室にたどりつく。
フッ、疲れ果てました。授業もこのテンションでないと彼女たちには太刀打ちできません。心なしか・・・めまいが(笑)。
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教師の鬱
先日、教育委員会の人事担当とお話をする機会があった。彼の話で一番興味を引かれたのが「教師のうつ病」のお話。
教師という仕事は特に「前年度を引きずりやすい」性質を大いに帯びており、これまで前任校で自信に満ち溢れていた教師に限って新天地?で「うつ状態」を引き起こす事例が頻発するそうだ。ひどいケースになると「教室に行く時点で足が震え、入室もままならない」重症の状態に陥ることも。
このケース、ワタクシにはよく理解できる。前任校で生徒からの人望もあつく、つねに自分に自信を持って常に充実感の高い授業を展開してきた場合、環境が変わると教師自身のスイッチの切り替えが上手く行かなくなるのだ。つまり、「すべてが自分の実力によって上手く行った」という錯覚が生じるわけで、その錯覚をそのまま引きずると、「こんなはずではなかった」という思いが次第に焦りにかわり、ものの一月もしないうちにそれは「うつ状態」を誘発する。ワタクシ自身、何度も危ういケースを経験してきただけに、よくわかる。早いうちから、「あれは生徒と自分との波長がたまたまピッタリ合っていたからこそできた技なのだ」ということに気づけば、回復は早い。教師の五月病を経て、ちょうど今ごろはほどよいスタンスで生徒に対峙できているはずであろう。
生徒はたとえ同じメンバーであっても毎年その表情、興味の対象、ひいては価値観、人生観までもがめまぐるしく変化する。変わってないのは結局自分、つまり教師側ということになる。変わる必要もないのだけど、生徒が変わってきているという「現実」を受け止めて理解するだけの「許容範囲」はどうしても教師側に必要だ。
急なスイッチの切り替えはもちろん不可能。「現実」を受け止めるには、いかに百戦錬磨の教師といえども若干の時間的猶予がいる・・・・それが、ワタクシは、「教師の五月病」だと思っている。だから、教師には「五月病」は必要なのだ。それが一時的な「病んだ状態」だということを素直に認識できればなにも問題は無い。6月からは徐々にジョークも決まり始めるし、生徒も慣れて来たぶん、だんだんとむこうから話しかけてくることも多くなり、「最初は××だったけど、いまは○○」みたいな「場面」がだんだんと増えていき、今まで嫌で嫌で仕方が無かった授業も、「アタリマエの光景」として定着していく。
一年は長い。だからこそ、ワタクシはこと学校業務に関しては、最初からなるべく「花火を打ち上げない」ようにしている。いったん打ち上げてしまうと、次にはさらに「華やかな花火」が必要になってしまうからだ。それでは教師が持たない。途中で息切れを起こすのは目に見えている。
4月の時点で「いやでいやで仕方が無かったクラス」・・・・今はほどよく生徒と調和してほんといい具合に授業がすすんでいる。不思議なもので、わかってはいるのだけれど図らずも「花火を打ち上げてしまったクラス」・・・・ちょっと軌道修正に体力を費やす日々が続いている(笑)。これは自業自得・・・そう!わかっていればそれでいい。当面夏休みまでは気の休まる「瞬間」は・・・ない。
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病んでいる?
「病んでいる」・・・・この言葉,最近学校でちと流行気味。
ワタクシが見るに、ここ最近、生徒のみならず先生も疲れている。ここ2〜3年はこういう現象が自身なかっただけに、忘れていた・・・・そう、「五月病」。
ほんと、「五月病」とはよく言ったもんだ!!いつの年度も、やはり5月はお互い(生徒も先生も)疲れ果てる時期なのである。ここ2〜3年、自分にその兆候が無かったのは奇跡に近い。
お互い「ダラ〜ン」とした雰囲気で授業が進行していく。やがてアチコチで「授業気だるいサイン」が生徒の方から出始める。
「センセ〜イ、キョウハスコシハヤク止めようヤ〜」・・・その甘えた声は教師の心理をよく読んでいる。決して直接的ではなく、あくまで「提案」なのだ(笑)。が、これに「乗った」らもうオシマイ。「乗っかりたい」のは山々だが、はっと我に帰って、しつこい生徒には「ここは義務教育ではないのだから、やりたくない者は去れ!!」・・・決まった!本人の本意とはうらはらに、けっこうビシッと決まりました(笑)。
その生徒、いつもはあまえてばかりのほ〜んと未成熟なやつなのだが、かつを入れられた瞬間、それまで閉じていた教科書は開くは、ノートを探すは・・・もう見ていてとってもラブリー♪
先生も疲れているのです。あまり怒らせないように(笑)。
やっと五月が終わりますね。来週からもっと過酷な6月です。とうめん闘いの日々は続く。
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